立命館大学・佐藤量さんによる上映会参加報告です
ドキュメンタリー映画『テニアンからブラジルへ:二度の戦争を生き残った沖縄の移民』
上映会に参加して
立命館大学・専門研究員 佐藤量
2014年12月13日(土)、上智大学で開催されたドキュメンタリー映画『テニアンからブラジルへ:二度の戦争を生き残った沖縄の移民』の上映会に参加した。この上映会は、上智大学・蘭信三先生の科研費プロジェクトの一環として開催され、科研メンバーである琉球大学・野入直美先生を中心に企画された。
本映画は、1939年に南洋群島のテニアン島で生まれ、戦前に沖縄に引揚げ、戦後にはブラジル、アルゼンチン、ハワイに移住した上江洲清(うえず きよし)さんのライフヒストリーを描いたドキュメンタリーである。戦前・戦中のテニアン・沖縄時代から、戦後のブラジル移住までの前半生が描かれており、驚くことに戦前・戦中・戦後にかけての上江洲さんの移動範囲は太平洋全域におよんでいた。環太平洋地域をめぐる日本人の移動を考えるうえで、きわめて重要な示唆を与えてくれる映画である。
上江洲さんの長い長い移動人生は、3歳のときからはじまった。上江洲さんの両親は沖縄県具志川の出身で、日本統治下のテニアンで黒糖工場の出稼ぎ作業員として働いていた。上江洲さんが3歳のときにテニアン島からポナペ島に家族で移住するが、太平洋戦争が勃発して父親が徴兵されてしまう。その後、残された家族と共に、安全だと信じられていた沖縄に引き揚げた。だが、戦火の沖縄への引揚げは非常に過酷な体験であった。沖縄に向かう引揚船はアメリカ軍に攻撃され、上江洲さんの乗った船も沈没し、船長に救命ボートに投げ込まれたことで数少ない生存者となった。このときに母親は聴力を失ってしまう。その後、漂流しているところを偶然マグロ漁船に救出され、赤十字船で激戦地をくぐりぬけて神戸に帰国した。その後沖縄に移動するが、今度は沖縄で地上戦に巻き込まれ、幼い弟が目の前で狙撃され死亡した。
壮絶な戦争体験を経て、7~8年間沖縄で暮らした後、上江洲さん一家はブラジルへ移住する。移住先はアマゾン流域のカッペンという地区である。だが、マット・グロッソ州クイアバ市管内にあった同移住地は、事前調査で知らされていた報告内容と現実がかけ離れており、上江洲さん一家は途方もない苦労を強いられた。ブラジル移住後から、1960~70年代のアルゼンチン、北米大陸、ハワイでの生活を経て、2002年に本格的に帰国する話は次回作のテーマということで、本映画ではブラジル移住までが描かれている。
本映画は、上江洲さんが監督の翁長巳酉(おなが みどり)さんに語る形式で進行するが、上江洲さんを撮影するカメラは固定されほとんど動くことがない。観る者は、上江洲さんが情感豊かに語る姿に引き込まれ、ポナペから沖縄への引揚げと、沖縄での地上戦の数奇な経験にくぎ付けになる。まさにインタビューの現場にいるようである。
この特徴的なカメラワークから、ある中国人監督の映画を思い出した。王兵による『鳳鳴:中国の記憶』(2007年)という映画である。1950年代中国の反右派闘争で批判され迫害を受けた女性が、当時の体験を語るドキュメンタリー映画だ。3時間におよぶ本編のうち、大半は固定されたカメラが主人公の女性が語る姿を映し続ける。主人公は迫害に至る経緯からその内容について赤裸々に語る。カメラは主人公の息づかいや仕草もとらえ、緊張感がさらに高まっていく。上江洲さんが語る姿も同様であり、本映画では迫力あるインタビューの臨場感を感じることができた。
映画上映会のあとは、上江洲さんと翁長さんが登壇されて質疑応答が行なわれた。およそ1時間半の質疑応答だったが、翁長さんの明るいキャラクターと上江洲さんの見事な語りもあって、非常に楽しい時間であった。時間の経過とともに質疑応答形式から、お二人の掛け合い状態になり、最後には上江洲さんの独壇場になっていった。次第にトークの場が形成されていく感覚が楽しく、司会をされた蘭先生の効果的なリードや補足がとても印象的だった。
会場も和やかな雰囲気になるなかで、戦後沖縄での教育に関するお二人の掛け合いは興味深かった。世代の異なるお二人は戦後の沖縄で学校教育を受けているが、その内容は大きく異なっている。1950年代に教育を受けた上江洲さんは、「日本語を覚えることが一番の目標」で「日の丸」に対する愛着を語った。南洋で生まれ育った上江洲さんならではの視点だろう。一方で1960年代以降に教育を受けている翁長さんは、「沖縄民謡が必須科目」「すごい反日教育を受けた」という。戦後沖縄の社会状況が目まぐるしく変化していることがよくわかる掛け合いであった。
次回作も非常に楽しみであるとともに、ぜひまた上江洲さんと翁長さんの掛け合いも見てみたい。